【看護師転職】大成功に見えたが?その先に待ち構えていた魔物の実態とは!

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【辞めるのに苦労しました。本当にしんどかった。】

大阪府在住 40代 経歴15年 看護師

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大成功したかに見えた転職活動

とある病院に勤めていた時の事です。
比較的大きな病院で、福利厚生も充実し給与も悪くありませんでした。名前も知られている所だったので、憧れの気持ちも少しありダメで元々と思いながら採用に応募したのを覚えています。

面接にも何人も来られていて、志望動機を聞かれましたが「家族がお世話になった事がある」という程度のありきたりの答えしか言えず、年齢も高い方だった私は諦めの気持ちを抱きながら帰路につきました。

面接後、次の応募先への書類をいそいそと進めていたら電話が鳴りました。着信先を見ると、その病院からだったのですが不合格の連絡だろうと思いながら出ました。

すると聞こえてきたのは「採用です。10/1から勤務になります。」との声でした。

本当に予期せぬ答えだったので、思わず「えーっ!そうですか。」と拍子抜けしたような間抜けな返事をしてしまいました。

しかも勤務開始まで1週間ほどしかなく、あれよあれよという間に中年看護師の転職活動は幕を閉じました。

しかも憧れだった病院の採用という華々しい結果で。

しかも1年も経たずに辞める事になろうとは、当然この時には全く思っていません。

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勤務開始から

残念ですが、既に勤務開始日から暫くの記憶は全くと言っていいほど消えています。

私に一番きつくあたった看護師の名前も思い出せません。恐らく防衛本能なのか、脳が消し去ろうとしたのではないかと自分では思っています。

私は病棟経験が同年代の看護師に比べて極端に少ないのですが、正社員として採用されました。

看護大学、大学院(看護系以外)を出ており保健師免許も所持しているからか解りませんが、採用経路の違いによりパートや非常勤で甘んじている看護師もいる中で、妬みを持つ人もいたのかもしれません。

勤務が開始になりましたが、当然ながら物品名も解らず使った事のない物も山ほどありました。

金銭的に潤っている病院だったので、最新の物が用意されていたりしました。

(これは他病院勤務の友人と話をしていて判りました。)

説明を受けるたびにメモし、帰宅後清書する日々が続きました。毎日指導する看護師が変わるので、教え方がバラバラです。

これは交代制勤務の為、仕方ないのですがとにかくバラバラ、のひとことにつきます。

人に教えた事が無いのではないかと思えるくらい酷いものでした。

病棟パス(クリティカルパス)の入っているパソコンのフォルダも長い間教えてもらえませんでしたので、この手術の患者が術後何日目なので、この処置という流れがいつまでも全く見えず、自分で1日のスケジュールを立てられない状態でした。

1つの処置に関しても教わる看護師が変われば言う事が変わる為、いつまでも合格をもらえず自分だけで出来る処置が増えません。

いつまでも指導看護師と一緒に処置をしなければならない日々でした。

昨日の看護師はOKと言っても今日の看護師は駄目だという。意見すると言い訳と言われ、何か発言すると口答えと言われました。

中でも酷かったのは、指導看護師が私に子供の保育園の迎えは何時なのかと聞いてきたので、気を使わせないよう何時でも構いませんと答えました。

実際夫に迎えは頼んでいましたので、正直に答えたのですが、こちらが気を使って聞いてあげているのにその態度は何かと言われました。

挙句の果てには、言っていない事まで言ったと言われたり、休憩時間を過ぎて帰って来たと言われたり(実際は過ぎていません)、処置のスケジュール変更を患者希望で変更しても勝手に変えたと言われたり、散々でした。師長と他の看護師が更衣室で私の悪口を言っているのも聞きました。

殆どがでっち上げの内容でしたが、何を言っても信じてもらえず言い訳だと返されるので、段々と口数が減りました。夜勤明けでも帰宅が午後になるなど生活も無茶苦茶でした。

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辞める決意

ある日勤の帰宅途中、駅まで歩いている時に涙が止まらなくなりました。

何かを言われている最中でもないのに感情がコントロール出来なくなりました。

もうこのまま出勤する事は無いのだろうと何故か思いました。

次の日、夫に頼み込み体調不良で休むと勤務先に電話してもらいました。師長が私を出せと言うのは解っていましたので、体調が悪く出られないと答えてくれとあらかじめ伝えていました。

夫は理由を聞かずに私の言うとおりにしてくれました。

そのままインターネットで調べた近くの心療内科に行きました。

全てを医師に伝え、もう勤務は出来ないと話すと「適応障害」と診断されました。診断書と内服の処方を受け取りました。

その後、夫にどう説明したか覚えていませんが、恐らく私の様子がおかしかったのでしょうか、何も聞かれませんでした。

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行動を起こすまで

もう勤務先には行けないという事は自分の中で決まりましたが、ではこれからどうするのかという予定は何をどうすれば良いのか解りませんでした。

自分で退職を願い出るとすればそこから一ヶ月ほどは勤務しなければならないでしょう。

何より、もう一度あの病院へ出勤して師長に自分で話さなければなりません。

そんな事は到底、当時の自分には出来ませんでした。

入職時に採寸した白衣のパンツがずり落ちてしまうほど痩せ、かなり大きなダメージを受けていましたから。病院に行った日に急に当日電話をし休んだ事も責められるでしょう。

しかも夫に話させて私は電話口には出なかったですし。あの病棟のメンバーにとって恰好の攻撃のネタになるでしょう。

考えれば考えるほど、追い込まれていきました。

まさに師長が悪の根源だったところがあるので、より高い職位の看護部長あてに体調不良で欠勤する旨をメールしたような記憶があります。

(手紙だったかもしれませんが記憶が曖昧です。)これも定かではありませんが、返事がきて復職の際には異動の希望も聞いて下さるようなお気遣いは頂いたような気がします。

悉く記憶が消えており、よほど私の体はこの一連の出来事を脳裏から消し去りたいと判断しているのだなと実感させられます。

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実際の行動

ようやく本題にたどり着きました。どうやって退職するか、しかも直接動かずに、と考えていた時にふと閃いた労働組合という言葉。

そこにアクセスしてみる事にしました。

大企業レベルの病院だったので簡単に労組の連絡先は探せました。

電話で話す余力が残っていませんでしたので、メールで担当者宛に、退職したいが体調がすぐれない自分は動けないという内容の文章を送りました。

数日後、返信がありました。そこには「さぞお辛かったでしょう。」という優しい言葉が有りました。

それから今後、円満に退職するための手伝いをして下さるとの事で、地獄の底にいた私にとって蜘蛛の糸が垂れてきたような感じでした。
その後、労組担当者と何度もメールし実際の手続きを進めていきました。

私のように入職後日が浅い職員がこのまま休職を続けた場合、半年で雇止めとの事でした。

雇止めになるとその後の経歴にも影響しますので、その頃までに辞職する事に決めました。

辞めるまでには、ロッカーの中の私物の整理や社員証の返却、関係書類への署名捺印などやる事が多々あります。

それを人事担当者と労組の間でやり取りして頂きました。

労組の方は時間を空けず適宜進捗状況をして下さり、安心して進められました。

結局書類と返却物は郵送で行い、ロッカー内の私物は病院にて処分して頂きたいと伝えて下さいとお願いしました。

虫の知らせだったのか、結果として最後の出勤日となった日に何となく気が向いてロッカーは整理していたので、殆ど何も残っていませんでした。

自分の中でも無意識ながら、もうこの病院には出勤しないという思いが存在していたのかもしれません。

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