【看護師】半年もの期間、退職妨害?/30歳代/経験年数4年

◎強い引きとめで半年退職できなかった体験談
30歳代/経験年数4年/千葉県

 
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地域で評判の三次救急病院に入職

私は以前、三次救急の総合病院で働いていました。がん拠点病院や周産期母子医療センターに指定されており、地域随一の規模を誇る大病院でした。

公立病院だったため、職員は全員準公務員の扱いです。中途採用は行っておらず、新卒の正看護師のみが就職できました。
地域に根差した医療の提供を目指しており、他院では受け入れを拒否されてしまうような方でも受け入れ、地域住民からの人望もかなり厚い病院でした。

「あの病院に入職できたなら、公務員同様の待遇で働けるし、とても名誉なことだ」と親戚や近所の人から誉めそやされるほどでした。

2週間で退職願を提出

しかし、入職してみるとその実情はとてもひどいものでした。
重症度・緊急度の高い患者を拒否せず受け入れており、業務量が圧倒的に多いのです。

とても定時で帰れるような状況ではありません。

7:1看護をしていましたが、重症個室の患者の割合が多いため、ベテランの看護師はそちらにかかりきりになります。
中程度・軽症を1日10人以上受け持つのが当たり前でした。

しかし、それはその病院内における中程度・軽症であり、他院では到底受け入れられないような全身状態の人も多くいました。
もちろん、準公務員の待遇や看護師としてのプライドから、他院に比べれば離職率は高くはなかったでしょう。

しかし、即戦力となる中途採用の看護師が入職せず、毎年新人看護師を補充していくのみなので、現場はいつでも新人教育と膨大な業務を並行しなければなりません。

新人を早く育て、即戦力とするために、実力以上の仕事をさせられ、充分な教育体制やフォローもなく、現場に放り込まれる日々が続きました。

新人研修を終えた私は呼吸器内科病棟に配属されましたが、ほぼ終末期の患者が延命のために化学療法や輸血などの治療を行っていました。
常に何が起きるのか分からないプレッシャーや、看護師免許を取得しているだけの知識・技術不足な状況は、私を精神的に追い詰めました。
プリセプターの先輩からの指導も厳しく、激しく罵倒されるなど、気の休まらない毎日でした。

たった2週間で体重が5㎏落ち、血便が出て、通勤途中にわけもなく涙が止まらなくなるなど、感情失禁に陥りました。
私は看護師長に面談を申し出て「今日限りで退職したいです」と伝えました。

看護師長はとても困惑した表情で、私から聞き取り調査をし、「でもまだ始めたばかりだし」「もうちょっと頑張れないの」「大変なのは最初から分かってたことでしょ」など、宥めたり、脅したりを繰り返していました。

私の意志が頑なだと悟ってからは、看護局長にアポイントを取り出し、私は看護副局長との面談を受けました。

優しく寄り添ってくれた看護副局長

看護副局長は私の話を聞いて、ぽろぽろ涙をこぼし「ごめんね、そんな大変なことがあったんだね。私たちは現場を直接見れる立場じゃないから情報が入ってこなくて。あなたを追い詰めてしまったのね」と優しく話してくれました。

私は気持ちに寄り添ってもらえたことが嬉しくて、この日子どもの様に泣きじゃくりました。
看護副局長に部署異動を提案されて、受け入れることにしたのです。

しかし私は、これが看護師長と看護局による引き止めの作戦であったことに気づきませんでした。

異動先の病棟でも状況は改善されない

異動先の循環器内科でも、多忙さは何一つ変わりませんでした。

むしろ、心臓カテーテルの送り出しや術後のバイタルサイン測定、点滴など時間で動かなければならないケアが膨大で、常に分刻みのスケジュールで行動しなければなりません。

それでいて、糖尿病の患者への管理指導なども突然しなければならなくなると、もう物理的に時間が足りません。
先輩に手助けを頼もうにも、先輩も多忙で頼めず、時間が後倒れになり、結局プリセプターの先輩から頻繁に叱られました。

以前のように血便が出ないだけましだと自分に言い聞かせ続けました。
今は辛いけれど、頑張れば先輩たちに認めてもらえると信じて、がむしゃらに、ひたむきに頑張りました。

1年先輩の看護師は看護学校時代から仲が良く、唯一私の心のよりどころでした。
彼女がいてくれるから頑張ろうと思えました。

しかし、その先輩もプリセプターの先輩に目を付けられ、キツく当たられ、膨大な業務をこなすことに疲れてしまい、仕事に来られなくなってしまったのです。

その日から私は絶望感に打ちひしがれるようになりました。
何の救いもなく、ただ忙しく、良いように扱われ、何のために看護師になったのか疑問に感じるようになりました。

私は私のために生きても良いのではないか、私にも人としての尊厳があるはずなのにどうしてこうも辛い思いをしなければならないのか。
毎日堂々巡りの考えを繰り返しました。

適応障害と診断された私

私もある日遂にベッドから起き上がれなくなり、仕事を休みました。
内科にかかり、心電図や血液検査などを受けましたが異常はなく、心療内科で適応障害と診断されました。

私は診断書の提出や病気休暇の申請のため職場に行かなければならないことが度々あり、その際に師長や看護副局長との面談が設けられました。
最初は「最近どう?眠れてる?ご飯は食べられるの?」と心配そうに言うのですが、話が進んでいくと「みんな待ってるから早く戻ってきてね」「元気に戻ってくるのを待ってるよ」「そろそろ仕事来られないの?」など、復職を促してきました。

全ては現場ファーストで、しょせん私は使い捨てのコマ同様だったのだと、その時初めて気づいたのです。
心配しているようで、もっともらしい言葉を定型文の様に口にするのみ。

すべてはまやかしで、本当は私の心配など何一つしていないのでした。
私はもう誰も信じられないと感じました。

私の居場所なんてなかったのです。
頑張っても頑張った分だけ搾取される弱者でした。

私はもううわべだけの優しい言葉には騙されないと決意しました。

退職願を受け入れてもらえず…「逃げなければならない」
私は度々退職を希望しましたが、「他の部署に行くのはどう?」「早まって考えなくていいのよ」と受け入れてもらえませんでした。

毎日のように電話もかかってきて、心配と復職を促すメッセージを伝えてきました。
私は段々とこの病院に恐怖心を抱くようになりました。

自分たちの要望だけを伝えて、こちらの話には耳を貸そうとしないのです。
このまま一生逃れられないのではないかと思えて、動悸や息苦しさを感じました。

病気休暇を取得した最初のうちは心療内科に頻繁に受診して投薬治療やカウンセリングを受けなくてはならない状態でしたが、職場から離れ、ゆっくりと生活する時間が持てたことで私は徐々に回復していきました。

一カ月もたつと、見違えたような生き生きとした表情の私に戻れました。
回復するにつれ、職場復帰ではなく、どうすればあの職場から逃げることができるのか冷静に考えを巡らせました。

「逃げられない」のではなく、「逃げなければならない」のです。
私は転職活動を始め、早々再就職先を見つけました。

病棟には半年ほどしか務めていませんでしたが、「あの病院に勤めていたなら新人でも即戦力になる」と評価してもらえたお陰です。
この時ばかりは、この半年頑張り続けてきた自分の努力が無駄ではなかったのだと喜ばしく思いました。

私は心療内科の医師に相談して、「適応障害の治療のために退職も視野に入れるべき」といった主旨の一文を書いてもらい、退職を願い出ました。

この時、病気休暇から2カ月が経過しており、私の頑なすぎる態度に病院側が折れました。

最終面談で、これまで登場しなかった看護局長が現れ、「次のお仕事が決まっていないようならいいところを紹介できるわよ」と突然言い出しました。

これ以上関わってもろくなことがないと思い、私はその申し出を丁重にお断りしました。

半年かけて退職できた現在

最初に退職を申し出てから半年以上引き止められ、私はやっと退職することができました。
もちろん、半年頑張った成果により、次の就職先を見つけることができたので無駄ではなかったと思います。

また、親切そうな言葉や態度だけでなく、その裏に隠されている事実や本音を見抜くスキルを身につけなければならないという学びを得られました。

しかし、もう二度と体験したくない半年であることは間違いありません。
自分の人生は自分のもので、誰かの犠牲になっていい人間など1人もいません。

誰もが幸せになる権利を持っています。
強い引き止めに合っていて悩んでいる人には、自分らしく自由に生きるための勇気を出してほしいです。

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